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由仁・三川C型肝炎

注射器肝炎とは、注射器や注射針の使い回しによって出来た肝炎で、我が国のC型肝炎ウイルス感染の主流であると考えられます。
C型肝炎の感染経路を明らかにする為『C型肝炎問題を考える会』が2006年11月から2009年12月までの3年間、由仁・三川地区の疫学調査を実施しました。その結果、由仁・三川地区は北海道で最大のC型肝炎多発地域であることが証明されました。
肝炎は医原病です。
B型肝炎は針も注射器も変えないで行った「集団予防接種」(皮内あるいは皮下接種)のため、広く国民の中に広がった病気です。この事を明らかにすべく、1989年6月30日に5人の原告が国を相手に提訴しました。その後17年という長い戦いの末、2006年6月17日の最高裁判所は原告の訴えを全面的に認め、原告側の完全勝利で終結しました。
 また、C型肝炎は薬害C型肝炎(フィブリノーゲン製剤)として国民に知られるようになりました。
しかし薬害C型肝炎はC型肝炎ウイルスの主流ではありません。日本のC型肝炎ウイルス感染の主流は医療機関による注射器の使い回し(主に静脈注射)が原因ですが、その真実は国民に明らかにされていません。
 由仁・三川の裁判はC型肝炎ウイルス感染経路の真実を証明するための闘いなのです。この裁判で必ずC型肝炎ウイルス感染経路の真実を国民に明らかにしてくれるでしょう。

由仁・三川C型肝炎訴訟

原告団団長 岩崎昭明

由仁・三川C型肝炎訴訟とは

 

由仁町の疫学調査において由仁・三川地区で4割の住民がC型肝炎に感染していた。

住民は医療機関のずさんな行為を放置したとして2012年3月15日、国を相手に国家賠償請求を求めた訴訟。現在裁判を継続中である。

寄付のお願い

2006(平成18)年11月12日「C型肝炎問題を考える会」結成し、道内の肝がん標準化死亡比の高い、三川地域、函館市戸井地域、士別市朝日町、三川以外の由仁町の疫学調査を行ってきました。

その結果C型肝炎ウイルスに最も汚染された由仁・三川地域の住民が国を相手取って2012(平成24)年3月15日に損害賠償を求める訴訟に踏み切りました。いわゆる”由仁・三川C型肝炎訴訟”と呼ばれるものです。

そこで『C型肝炎問題を考える会』としての一定の役割は果たせたと考え解散し、2012年6月17日に『由仁・三川C型肝炎訴訟を支援する会』として新たなスターを切りました。

ところが裁判を支援する活動のための、寄付を募ってきましたが、名称の問題もあり、支援して下さる方が増加しないため、2015年6月3日を持って再度名称を『由仁・三川C型肝炎問題研究会』と変更しました。由仁・三川訴訟の勝利は必ずC型肝炎の救済に繋がります。是非ご寄付の程よろしくお願いします。

なお振り込み先の口座番号は以下の通りです。

北洋銀行 店番号494、口座番号4106425 由仁・三川C型肝炎問題研究会 事務局長国中るみ子

由仁・三川C型肝炎訴訟第12回 口頭弁論

私は原告79番 の長女、です。

私の父は昨年9月3日の第9回口頭弁論で意見陳述する予定でした。しかし肝硬変による合併症でお腹に多量の腹水が溜まり動くことができず、当日は病院のベッドの上でした。

その父は、その口頭弁論直後の昨年9月13日に亡くなりました。

あの時、父が裁判官にお話したかったことを 私が父の代わりにお伝えしたいと思い、今日はここに立たせていただきました。

 

父は、昭和20年5月20日千歳市新川に生まれました。

幼い時は体が弱く、熱を出したときには、千歳市街地よりずっと近い由仁町三川の山内医院に何度もお世話になり、その度によく注射をしてもらったと話しておりました。

小学生頃には何回も山内医院で注射をしていたそうですが、そのうち何回も注射器の中に赤い血が混じっていたのをはっきりと覚えていると話してました。赤く濁った薬をうたれるのを不安な気持ちで見ていたそうです。

その父も中学校を卒業後は、札幌で大工になる為の修行をはじめました。

 

昭和44年2月28日、同じ千歳市新川出身の母と縁あって結婚、私と妹と二人の娘が誕生しました。

 そして昭和48年春に独立を決意し、工務店を設立しました。

父の仕事は主に在来工法の木造建築ですが、中でも和造りに関しては拘りを持って精を出し得意としておりました。

 

そんな大工の父を見ていた私は、自然と建築の道を志すようになり専門学校卒業後は市内の設計事務所に就職、その後平成8年に父の会社に入社して2級建築士を取得し、約18年間、父のもとで仕事をしてきました。

 

 父は、仕事熱心でありましたが、それと同じくらい釣りが大好きでした。

父の事をよく知ってる人達から、本業は大工なのか漁師なのか?と言われるくらいです。休みの日はどんなに仕事で疲れていても家に居ることなく、釣り三昧の日々でした。

 

そんな父を突然病魔が襲ったのは、平成19年2月のことでした。

知人に誘われて生まれてはじめて受診した人間ドックで肝臓に問題があると医師から宣告されました。

詳しい検査の結果、父の肝臓はC型肝炎ウイルスに侵されていて既に肝硬変を患っている状態でした。そして肝硬変による合併症で食道静脈瘤が何箇所も見つかり、内視鏡による手術が必要となりました。

大人になってからは体が丈夫で体力もあった父なので、この時の入院、点滴、手術、すべてが初めての経験でした。

 

食道静脈瘤の手術は毎週のように行われました。その度に食事も出来なくなり、大食漢の父にとっては苦痛の日々だったのです。2回目、3回目と静脈瘤の治療が終わり、やっと退院できたのが年の瀬も迫った12月9日でした。ホッとしたのも束の間、退院後に自宅にいた父は、トイレで力んだ際に治療して間もなかった静脈瘤が破裂し、大量の吐血をして倒れました。

本人はもちろん、私達家族は事態に驚き、動揺と恐怖の中すぐに救急車を呼び病院に搬送してもらい、再入院となってしまいました。その時、幸いにも処置が早かったので一命は取り留めましたが、今でもあの時の不安と恐怖の時間が鮮明に蘇ります。

 翌年の平成20年には2回の食道静脈瘤の治療を行い、以降は静脈瘤からの出血も起きず、今まで通りに仕事も釣りもできるようになりましたが、この2年間で何度も入退院を繰り返した父は本当に辛かっただろうしすっかり体力も落ちてしまいました。そして家族の私達も不安で辛い思いをした日々でした。

 

 何よりも、自営業で代表取締役という立場の父が入退院を繰り返した事により、仕事にも大きな影響を与えてしまい、会社の業績は一気に落ちて、数年間は本当に経済的にも苦しい日々だったのです。

 

 その父がこの訴訟の原告団に加わる事になったのは、平成23年の暮れに、原告団団長の岩崎さんが声を掛けて下さった事がきっかけでした。

同級生でもある岩崎さんが父の病気を知り、連絡をくれたのです。岩崎さんのお話を聞き、自分がC型肝炎を患うことになってしまった原因が、小学生の時の血液が混じった注射にあったという事実を知り、父は愕然としたそうです。  そして父は迷わず原告団の一員になる決心をしました。

 

父の体の状態は、ここ数年は安定していたのですが、昨年から一気に状態が変わりました。

昨年1月、正月があけてすぐに肝臓にできてしまったガンを治療する為に、父は入院することになりました。1月21日に、ラジオ波焼灼手術による早期治療をしました。この時はすぐに退院できましたが、それ以降は春頃からお腹が張るほど腹水が溜まるようになってしまいました。

徐々に腹水が酷くなり、普段履いているズボンが履けなくなるほどお腹は膨れ、それと同時に父の体力も落ちてどんどん行動力も落ちていきました。

 

それでも父は、今年も6月のチップ釣りは解禁日に行きたいと希望しておりました。5月16日に、私と母は主治医から「腹水を抜くようになると、余命は半年になる」と聞かされており、このまま腹水が治らなければチップ釣りに行けるのも今年が最後になってしまうかもと思い、一年で一番の楽しみでもあったチップ釣りには何とか行かせてあげたいと先生にお願いをしました。

 先生は色々と手をつくしてくださりました。日に日に治療の効果が現れてお腹は小さくなり、父も体が楽になったと喜びとても元気になりました。そして念願の6月1日のチップ釣り解禁日には支笏湖で釣りを楽しむことができました。札幌まつり期間も3日間支笏湖へ泊まりこんでいました。

その頃の父は、かなり体力が落ちているのが見受けられましたが家族は何も言わず支笏湖へ行くのを見送りました。6月15日には母も支笏湖へ出向き、主治医の先生や先生のお友達、そして原告団の数名の方々が父の居る支笏湖へ行って集まり、みんなでバーベキューを楽しみました。自分の知人がたくさん集まって支笏湖でバーベキューを楽しむことは今まで無かったので、この時は本当に楽しかったと、嬉しそうに話してくれたのがつい先日のことのようです。

そしてこの日を最後に、父は支笏湖へ行くことを自ら断念したのです。

ある日の朝、母に「きちんと体を治して、また来年行けるようにする、だから今年はもう行かない」と涙ぐんで話したそうです。

元気でいたなら、今年も今頃は支笏湖でチップ釣りを楽しんでいたはずです。

この日を境に父は自分の体のことで一杯一杯になってしまい、仕事もできなくなってしまいました。この頃から会社の業務は私が一人で切り盛りしてました。

 

 それからは、常に腹水に悩まされる日々でした。

6月25日~7月10日まで入院し、利尿剤を増やす等して治療をしましたが、一向に腹水は減らず、父の体力も限界になりました。

7月22日に再入院し28日に退院しましたが、父のお腹はカエルに空気を入れたようにパンパンに膨れ、見るのも辛いほど苦しい状況になってしまいました。体力は落ち、動けない食べれない・・・悪循環な日々でした。

そして、苦しくて辛くなった父は「腹水を抜いて欲しい」と自ら主治医にお願いをして、7月30日に再入院、この日はじめて腹水を抜き8月5日に退院しました。

 腹水を抜くようになった頃から、父は体温調整ができなくなったのか、手足はいつも冷たく冷えきっていて、お盆前のまだ温かい時期でも寒い寒いといい、家の中でも一人フリースを羽織って暖房を入れていました。

そして腹水は、その後2週間に1回から、10日に1回、1週間に1回・・・と徐々に抜く間隔が早まってきました。

 

 第9回口頭弁論の日の9月3日は、6回目の腹水を抜く治療で入院しておりました。

そして最後の入院は9月6日。2日後に7回目の腹水を抜く予定で入院してましたが、入院した翌日の早朝に病室で転倒し、左側頭部を強打してしまいました。

当日のCT検査で、硬膜下血腫がみつかりました。ですが肝硬変の体であるため、止血は難しいとのことで頭の手術は不可能でした。

硬膜下血腫が広がるに連れて、日に日に会話ができなくなり、飲み込みもできなくなり、意識も徐々にもうろうとなり、そして入院してから1週間後の9月13日の夕方、父は69歳で永眠しました。

「俺は75歳まで現役で頑張る」そう父は言ってました。

仕事も釣りも、この先まだまだ楽しめたはずなのに、父はこの世を去ってしまったのです。

 

そして、父の抱えていたこの疾患は、思いもよらないところでも大きな影響を受けています。

父が、社長である自分に万が一の時の事があった時の為に、会社を守るために掛けていた損保保険が、未だに全額支払われておりません。

「亡くなった原因が、転倒のケガによる硬膜下血腫ではなく、元々持っている肝臓疾患が死因になっているのではないか」と言うのです。

大手の損保会社にもかかわらず、このような侮辱的な結果を押し付けられ、亡くなった父本人、そして私達家族のみならず、最後まできちんと看取って下さった病院に対しても本当に失礼極まりない断じて許せない事がおきております。この病気のせいで、こんな仕打ちも受けることが原告団の方々も、今後同じよう事態を受けるかも知れないと思いました。

 

 私は毎回、父とこの裁判を傍聴しておりました。

 父は、自分のように現役で頑張っている方達が、注射器の使い回しによって感染してしまったC型肝炎の所為で、こんなに辛くて大変な思いをしているという事実を裁判官に伝えたいと望んでおりました。ですが父はその思いを叶えられないまま他界してしまったのです。

 

私はいま、父の会社を継いで事業を継続しております。

母と妹と、そして会社の職人たちと共に、できる限り父の残してくれたものを維持できたらと頑張っております。

でも正直、とても大変です。今まで父と二人でやってきた事を 今は私が一人で全て仕切らなければなりません。

それでも、頼って下さるお客様がいる限り、それにお応えしていきたいという思いとまわりの方々のお力も借りて頑張っております。

 

 この裁判が始まってからの3年の間に、多くの原告団の方が亡くなってしまいました。

その家族の方達は、私と同じように悲しい辛い思いをしています。

C型肝炎という病気は、膨大な治療の費用と時間を消費します。

父のように肝硬変になれば、次々と合併症の不安も出てきて、本人のみならず家族の生活にも大きく影響するのです。

裁判官は、是非このC型肝炎という病気を改めて見つめ直し、現状にきちんと目を向けて下さい。そして人の命を救うはずの医療機関がこの大病を患う原因となった事に対しての適切な対応を強く願っております。

 

平成24年3月15日の札幌地裁提訴の日に、横断幕を持って歩いた父の思いに、今一度きちんと耳を傾けて下さい。

宜しくお願い致します。

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