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人体試験接種(国内)Ⅰ

「わが一生の思い出」によるとBCGの人体使用を我が国で最初に試みたのは、阪大の今村荒男で1929(昭和2)年のことである。

1935(昭和10)年には、九大の戸田忠雄と伝研で人体接種試験が開始されている。

阪大および九大では竹尾株が使用され、伝研では伝研株が使われた。

学術振興会第八小委員会が協同研究を行なう場合、どちらの株菌、すなわち竹尾株を選ぶか、伝研株をとるかで可成りの討議が行なわれたが、長与委員長は両株の毒性や免疫試験を至急するように指示された。

ある日の委員会が終ったあとで、長与又郎が今村荒男と私を呼んで、今週中にでも私が、一ケ所で伝研株と竹尾株の毒性や免疫効果を至急比較するように言われた。

菌株の検査は伝研でやることになったので私の責任は重大なものであった。

 今村からもらった牛胆汁の入ったグリセリン馬鈴薯培地に培養したBCG(竹尾株)と、牛胆汁の入っていないグリセリソ馬鈴繋培地に継代培養したBCG(伝研株)を比較すると,発育状態は肉限的に全くちがう。

竹尾株は表面滑らかな集落のかたまりなのに反して、伝研株は表面が粗雑な集落であった。

 菌を染色すると、竹尾株のほうが伝研株よりやや大きいが、発育速度を比較すると伝研株より遅いなどが判明した。

両株をモルモットに接種して毒力を比較すると、内臓の変化に変わりはなかったが、竹尾株では接種局所に潰瘍ができてなかなか直らないのに反して、伝研株では潰瘍も小さく治りやすかった。どうも竹尾株の方が毒力はやや強いように思われた。

しかし暫くは竹尾株で人体接種試験を行うことに決められた。

背蔭河では、すべて伝研株が使用されていたのに不思議な感がある。長与又郎は「背蔭河の工場」をある程度知り「その組織よからず」と言っているが、今村荒男も関与していたことは知らなかった。

 第八小委員会の最終報告書では、「伝研株でも竹尾株でもどちらでも良い。」とされた。 

第八小委員会では、1941(昭和16)年8月16日、長与又郎がS字状結腸癌の全身転移で死亡した。

長与又郎の病理解剖を行ったのは緒方知三郎1907(東大、明治40年卒)と三田村篤志郎(東大、明治44年卒)であった。

死後は委員長に熊谷岱藏が代わった。

熊谷はBCGの知識は全く無かった。


 
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