乾燥凍結BCGワクチン(内藤良一)
内藤良一著「老SLの騒音」(ミドリ十字社、1980)で乾燥凍結BCGの真実を知ることができた。
「1936(昭和11)年、アメリカのペンシルバニア大学の細菌学教室で行なわれた、血清やウィルス含有物の凍結乾燥の新研究が免疫学雑誌に発表され、当時京大の大学院で研究生として勉強していた私には大変な驚嘆でした。
当時の乾燥血清というものは、蛋白の変性をおこしている上に、極めて溶け難い松脂のようなものでした。
この新研究は今後、医薬の全部門に革命を呼ぶと予感し、追試してみたいと思ったものの、アメリカで使われたような器材は、当時の日本ではとても入手できないものでした。
1937(昭和12)年、陸軍省から欧州留学の官命に浴して、同僚の皆さんが満州や北支(北京)の野戦に苦労しているのにすまんの念一杯で、シベリア鉄道を使い10日間かかってベルリンに行き、コッホ研究所やカイザー・ヴィルヘルム研究所に籍をおいて、勉強に取りかかったものの、当時のドイツでは凍結乾燥のことを知っている先生はなく、一部の先生がアメリカの新研究を私と同等に驚嘆しているだけでした。
1938(昭和13)年の秋、無理をしてアメリカへ渡りました。
当時は太平洋戦争の前夜のこととて、日々の新聞は日本に対する反感を煽り、どこへ行っても排日、排ヒットラーの空気の中で、やっとペンシルバニア大学へたどりついてみて驚きました。各種の細菌を凍結乾燥で長く生かしておく研究、母乳を集めての乾燥、輸血用の乾燥血漿の製造研究が既にはじまっていました。
貪るように知識を吸収して歩きました。
瓶に入れたクエン酸ナトリウム液の中への採血、その貯蔵、血漿の分離、凍結乾燥など、今では誰でも知っている仕事が、すべて珍しく感嘆のみでした。真空ポンプ一台を買い求め、東京の役所の許可がえられないので生活費を極度に切りつめて、パンとハムとトマトだけの食生活。
クリスマスには誰からも招かれない上、食料店が閉まって食うものがなくなる始末。
やむなく深夜、アパートのゴミバケツを漁った。今から思えば、このとき生きるか死ぬかの境地で泥の上を這いずりまわったことが、私の英語にいささかの力をつけてくれたと思います。」
彼は語学の天才だったのである。
約半年のアメリカ滞在を終え、1939(昭和14)年3月16日、内藤と一台の真空ポンプを乗せた鎌倉丸は、横浜港に投錨した。
その日は春だというのに、1メートル先もみえないほどの激しい雪が降っていたという。