731部隊影の人物

伝染病研究所の第5代所長宮川米次は1935(昭和10)年7月の「所懐」(所感)で、今後の伝研のあり方を示唆する重大な発言をしていた。「実戦(戦争)には、正攻法と奇襲法がある。一軍を率いるものの最も苦心する所は、正攻をなすこともさることながら、奇襲をいかに上手にやるかにある。それには頭脳の勝れた幕僚が必要である。吾ら科学戦に携わっているものにも、完全に当てはめることはできる。」として細菌戦の体制づくりを指示している(実験医学雑誌雑報、19巻7号)。
実験医学雑誌は伝染病研究所の機関誌で月報である。雑報とは月々におきたお知らせ記事であるが、宮川米次のように本音を雑報に掲載した所長はかっていなかった。
更に1936(昭和11年)年7月の所感で「新庁舎(現在の医科学研究所)に移り、正に満2年の歳月がたった。
本所の事業は年とともに発展し、学部の数も最近では19学部に分かれるようになった。
各部の者が、文字通り一家にすむことになった。
私は新庁舎に移転すると同時に組織の変更をしようと思っていたが、あまりに急激の変化も好ましくないと考え、現在の『アパートメント』生活に慣れた後に、改組を断行するのが良いと思い待っていた。
その改組の要点は、第一より第八研究部および診療部を設けて、従来の学部よりは遥かに大きくなるも一九学部を半減した。各研究診療部には、部長を置き教授をそれに当てることにし、その下に従来どおり主任を配置した。そのほか特種研究を行う、特別研究室を設け、これは所長直属にすることにした。特別研究室は、現在4ケ所ある。1つは昆虫学研究室・山田信一郎(東大理、大正4年卒)、2つ目は野辺地敬三の疫学研究室、3つ目は食品研究室・遠山祐三(東大農芸、大正2年卒)、4つ目は精製痘苗室・矢追秀武である。現在いずれの方面の研究においても、到底一人では大研究はできなくなった。それには物理的に大きいことが必要である。
本所の予算も今や昔の約4倍に達し、所員の総数も500人におよぼうとしている。従来分裂しやすかった各学部をまとめて、大団結をするためにさらに大なる研究部をつくった。」(実験医学雑誌 雑報20巻7号)
細菌戦の準備は整いつつあった。この特別研究室が731部隊のコントロールタワーの役割を果たしていたのであろう。