731部隊の人材
1938年(昭和13)年4月1日から5日間、京都において第10回日本医学会総会が開催された。
4月5日、日本医学会総会の機会を利用して、宮川米次は、各国立大学総長、医学部長、医科大学長らを京都ホテルに招待し、対支防疫事業を説明して、協力と援助を求めた。
宮川米次が、京都ホテルで対支防疫の説明をする直前、所員の石光薫(東大、昭和2年卒)、中込亘(東大、大正6年卒)が陸軍技師に任ぜられ、彼らはともに、北満石井部隊に赴任した。
夫々3月31日、4月2日東京を汽車で出発した(実験医学雑誌、雑報22巻4号)。
また二木秀雄(ふたぎひでお)、石川太刀雄丸(京大、昭和6年卒)、岡本耕造(京大、昭和6年卒)、田部井和(京大、昭和6年卒)、吉村寿人(京大、昭和5年卒)、田中英雄(京大理、昭和7年卒)なども1938年3月3月平房の細菌戦部隊に入隊している。
その後731部隊に派遣されていた中込亘が8月13日殉死。おそらく細菌取り扱い中の事故死と思われる(実験医学雑誌、22巻10号)。
1940(昭和15)年8月1日付けで、米倉秀夫(東大、昭和10年卒)が石井部隊に派遣されている。
この年の4月28日、城井(きい)尚義、西澤(さいざわ)行蔵の退職記念祝賀会が盛大に行われた。 彼らは伝染病研究所が内務省管轄のものが文部省管轄(東大付属)に移管した当時の難問だった、ジフテリアおよび破傷風の抗血清、痘苗の製造を手掛け、これを解決したからである。
城井は「ジフテリア」西澤が「痘苗」を担当した。このなかには八木澤正雄(大正10年樺太出張中に腸チフスで死亡)が、「破傷風」を担当した。
彼らは伝染病研究所を立ち上げた北里柴三郎(東大、明治6年卒)門下からは裏切り者と罵られた。
この退職記念会で宮川米次は、「両博士には退職後は、以前設けた特別研究室でこれからも研究をしてもらう予定である。」と語っている。
また「城井の門下には笠井がおり、西澤門下には特に多くの逸材が出ている。すなわち田辺文四郎(東大、大正2年卒)、梶塚隆二(東大、大正3年卒)、松浦光清(九大、大正2年卒)、平野 林(岡山医専、明治34年卒)、北野政次(東大、大正9年)、島津忠預(東大、大正10年年卒)、田中継雄(日医大、昭和8年卒)、家原小文治(九大、大正4年卒)、早川清(東大、昭和5年卒)などであり、現在陸軍細菌学会の中堅である。」(雑報、22巻5号)と述べている。彼らが細菌戦でどのような役割を果たしたか、定かでない。