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石井四郎

1938年春にはハルビンから南へ20kmところに3600ヘクタールという巨大な土地に「平房の細菌戦部隊」が現れた。部隊員300人、その家族3000人とも言われる。

「平房の細菌戦部隊」の部隊長石井のもとに2人の兄がおり、石井3兄弟の下には石井家の小作の2男、3男がおり、特別監獄(丸太小屋)の秘密が漏洩するのを恐れ、特別班(マルタの管理)を身内で固めた。

遠藤三郞日記では、「1939(昭和14)年12月10日快晴、零下20度、午前9時、飛行機に宮田宮(恒徳)殿下(皇族)の奉送の後、石井大佐の案内で、平房の加茂部隊(秘匿部隊)を視察した。昭和8年、背蔭河時代と全く今昔の感があった。石井大佐の偉大なる力に敬意を禁じえなかった。昼食の際、高等官一同に希望を述べ、かつ背蔭河時代の雇員一同に面会。飛行機をもってする演習まで実施(略)。

夜10時半頃より12時ころまで石井大佐の来訪を受けた。中央部より細菌をもってする攻撃の実行を命ぜられるも、防除法の研究未完のため、実行には不同意なると漏らしていた。私も同感であった。」と書かれていた。

平房で使用された総実験動物(人)数は一般的には3000人といわれている。

この部隊はのちに731部隊として有名になるが、部隊長には背蔭河に続いて、野心的でエキセントリックで、当時の日本人には珍しく身長6尺(180cm)を超えていた石井四郎であった。

石井四郎の略歴を話すと彼は1920(大正9)に、京大を卒業し、卒業と同時に幹部候補生として陸軍に入り、東京第一陸軍病院に転任した。

 1924(大正13)年4月から1924年3月まで母校の京都帝大の大学院生として、2年間病理学や細菌学を研究した。 その2年後、京都陸軍病院に軍医として勤務した。 常石敬一の「消えた細菌戦部隊、増補版」では「1928(昭和3)年に海外出張を命ぜられ、1930年末まで、ソ連を含むヨーロッパ各地を視察して回った。」

当時の海外出張は軍の場合、中国への出張を欧米に

出張するという虚偽記載が多くみられるので欧米に行ったと言うには虚偽である。

石井四郎は背蔭河での実験準備に満州へ行っていたと考えれば今までのことの理解は用意であろう。


 
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