石井四郎の逸話
吉開那津子著「消えない記録 湯浅軍医の生体解剖の記録」(日中出版会、1993)、1943(昭和18)年の秋、山西省潞安(ろあん)の陸軍病院へ査閲(監査)のため石井四郎が来たという。監査というのは、現在の年一回の保健所監査のようなもので、彼は731部隊を下ろされたときのことで、保健所の所長のような仕事をしていた。
湯浅謙によれば、第三回目の査閲は、1938(昭和18)年の秋頃で、その時の状況を次のように述べている。「その頃、第一軍の軍医部長は、細菌戦で有名な、石井四郎少将に替わっていた。彼は日頃、軍医に中将までしかないのは、おかしいと公言していたが、おそらく専門の細菌戦を利用して、軍隊での栄達をもくろんでいたのだろう。石井四郎が、他の病院を査閲にいった時の噂が、私たちの病院にも伝わって来た。たとえば彼は、敬礼している衛兵に突如おそいかかり、相手の衛兵がひるむと、『軍規を守れ、なぜ乱暴する俺を殺さんか。』といって、叱咤激励するというようなことである。
もし彼が洛安陸軍病院へ来て、衛兵に対して同じようなことをやった時は、どうしたらよいだろう、などと私たちは相談した。銃では怪我をするから、木銃を用意しておこうと、準備を整えて待っていたが、彼が衛門のところで何かをするということはなかった。
その替わりに、わたしたちは細菌戦の演習をやらされた。それは、次のような想定のもとで行われた。飛行機の投下爆弾によって、ペスト菌のついた蚤(ノミ)が散布された、それに患者が羅患し、苦しんで暴れている、どうするか、というものであった。
石井四郎は突然患者になったつもりで、草原に身を横たえ、苦しがっている演技をはじめた。何分、上官だから手荒なことはできない。周囲に石灰と石灰水を撒いて、蚤が飛んで釆ないようにはしたが、横になっている石井四郎は、『苦しい、苦しい。』といって、手足をばたばたやっている。その時、朝鮮育ちで、朝鮮医大を出た、小柄だが柔道が強かったⅠ軍医が突然、前へ出て柔道の押え込みよろしく石井四郎を押さえつけ、なおも暴れるのを、『天皇陛下の軍人が、そんなことで騒ぐな。』と一喝したところ、大人しくなってしまった。
石井四郎はそのあとで、『ここには、元気のいい軍医がいるな。』と負け惜しみのようなことをいって苦笑した。天皇陛下を出されたら、上官といえども屈服せざるをえないのが当時の軍隊だった。