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小泉親彦シリーズ2

小泉親彦(東大、明治41年卆)は、東大では不真面目な医学生で階段教室の上段に座り、時々教室から抜け出し、よく汁粉屋に行っていた。

当然彼の大学での成績はよくなかったが、卒後は陸軍に入隊。1910(明治43)年には軍需工場で働く者の生活実態を調査し、「工人の生計および衛生」では東京医学会から優秀賞、「日射病の本態に関する実験的研究」では東京医学会(東大医学部卒卒業生の会)から最優秀賞を受賞した。

 1914(大正3)年6月、30才で陸軍軍医学校の衛生学教室教官に任命されている。このとき一時毒ガスの研究に走り、1918年には毒ガスの防毒マスクの試作品をつくり、自ら生体実験を行ったが、排気室不備のため瀕死の重態になった。

 「軍人は戦場で死ぬのが本懐(本望)なら、研究者が研究室で死ぬのは本懐である。」と言い張って、入院はせず、教官室のベットで過ごしたという話は有名である。

 彼は、1919(大正8)年1月から1920年9月まで欧米各国へ留学に出かけた。

 ちょうど第一次世界大戦が終わった頃で、戦勝国イギリスでは、1919年6月3日に英国保健省ができていた。これをみた小泉は、わが国にも内務省から独立した、英国保健省のような組織を造ることを夢見るようになった。英国ではこの時既に結核問題を解決していた。

 1921(大正10)年7月には、陸軍の胸膜炎調査委員になり、わが国の結核問題の早期解決を決意している。

 一方彼は人一倍、心底、現人神(あらひとがみ)天皇の崇拝者でもあった。

28才の天皇(昭和天皇)が、なぜか陸軍軍医学校新築を祝いのため1929(昭和4)年11月7日、陸軍軍医学校にはじめて行幸した(1929(昭和4)年11月7日)。

この様子が、「陸軍軍医学校五〇年史」に書かれているが現代語訳するとつぎの通りになる。

 「天皇は、午前9時45分に到着。学校長より陸軍軍医学校の沿革および現況について説明を受けた。その後休憩し、10時から見学を開始した。見学は第一講堂にはじまり、次いで標本室、軍陣衛生学教室および第二講堂に移られ、各室ともご熱心にご見学された。特に軍陣衛生学教室にては第一室より第九室まで小泉教官(45才)の説明をお聴きになられ、各部屋とも丁寧にみられたが、特に軍陣衛生学教室では小泉教官の説明を熱心に聞かれた。特に兵衣、兵食における業績については、お褒めいただき、予定の時間を若干遅れた。最後に小泉は天皇と一緒に屋上まで上がったところ、朝から降っていた細雨(霧雨)がにわかに止んで、陽光が雲よりもれ、都下の風景が手に取るようにみえた。小泉教官は主要な建物の説明をした。

 それに対して天皇は、いちいちうなずいていた。その後天皇は、再び便殿(天皇、皇后などの休息所)に午前11時30分に入り、少し休息して11時40分に帰られた。」陸軍軍医学校五〇年史でみる限り、天皇は小泉にわざわざ会いにきたのである。

 その年の暮れも迫った12月24日には小泉は天皇からおぼし召しがあり、天皇皇后を前にして「被服地について」と題してご進講(講義)した。

話の内容についての記載はないとのことであった(宮内庁による)が、ご進講は午後4時からはじまり、天皇からの質問などがあり、1時間50分におよんだ。小泉は涙が止まらないほど感激し、皇居を去った。「これは小泉教官の光栄ばかりではなく、陸軍衛生部全体の名誉でもあった。」と「陸軍軍医学校五〇年史」には書かれている。

ここで「背蔭河の工場」の実験について天皇の了解を取ったのであろう。17才も年上の男の言う理想を天皇は断ることは訳もない。


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