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小泉親彦シリーズ3

  • Dr.mima
  • 2015年6月11日
  • 読了時間: 2分

私は2014(平成26)年9月14日(日)「志摩の人小泉親彦」(有限会社グレイス、2013)の著者窪田義男氏を福井の鯖江市に訪ねた。

福井の鯖江市が全国で「めがね」のフレームの90%以上を造っていると知り、またもびっくりしました。

窪田氏によると天皇のご進講の後「予定が過ぎても帰らないのを同居していた妹正子が気をもんで待っていたところ、兄親彦はべろんべろんになって帰ってきた。何と飲み残しの酒も持ってきたのである。」天皇とは全く気があったのである。

2回の天皇と小泉親彦の会談で、少なくとも背蔭河の実験の了解は天皇に貰ったと考えればすべての説明はつく。

小泉親彦が1931(昭和6)年2月16日から10月まで欧米各国へ出張、この時元軍医中将寺師(てらし)義信によるとアメリカの大学で講義をしたとしているが、窪田氏ともどもそのようなことはあり得ないということで一致。

彼は背蔭河の工場を監視するための出張であることは誰にでも理解できる。

後から語るが1930年4月には、宮川米次と娘婿の岡西順二郎も満州に出張していた。 

小泉は1932(昭和7)年4月には、近衛師団軍医部長になり、1933年8月には陸軍軍医学校長に就任している。

 また1932年8月には、石井軍医正以下五名の軍医を新たに配属して、防疫研究室を開設したが、研究の進行(背蔭河の研究)とともにすぐ狭くなったとのことで、翌年、近衛騎兵隊敷地約5000坪に新防疫研究室を新築した。

 1933(昭和8)年4月工事費20万円をもって着工し、10月に完成した。

建物は鉄筋コンクリート二階建てで、延べ544坪であった。この建物は背蔭河での材料を保管するために造られたのである。

1934(昭和9)年3月5月小泉は陸軍軍医総監になった。彼は51才で陸軍軍医として、最高の地位に登りつめた。

この少し前の2月1日宮川米次も第5代伝染病研究所の所長になった。彼は49才で、彼らは「時の人」となったのである。


 
 
 

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