小泉親彦シリーズ5
医務局長軍医総監が、1938(昭和13)年12年10日突如被免された。その日、彼は中国地方の陸軍病院を査察し、軍内診療が遺憾なく実施されているか否かを視察中であった。本人には一言の内命もなく、電報でのみ免官を知らされたのである。
その後も小泉は厚生省を造る意欲はなくさなかった。
厚生省設立ついては宮川米次によると小泉親彦の意思は硬かった。「厚生省をつくったのは、当時首相であった近衛文麿であるが、その機運をつくったのは小泉と私であります。1937(昭和12)年夏、いよいよ日中戦争(七月七日)がひどくなったある夜、一緒に酒を飲んだとき、小泉君がどうしても健民主義(健康な神民をつくる)で行かなければならない時なので、何とか近衛文麿(総理)を動かさなければならないので、一寸骨を折ってくれるように頼まれた。」
その結果、1937(昭和12)年8月6日保健省の予算が通り、紆余曲折はあったが、厚生省(1938(昭和13)年1月11日成立)ができた。その後1、2年たって第二次近衛内閣のとき、厚生行政はぜひ医学畑の人から出ないと伴食大臣(役に立たない大臣)になってしまうと話したら、私に厚生大臣になれといわれたが、私は同仁会のことでお国に尽くしているからと固辞した。
小泉君を厚生大臣にしてくれないかと頼んだが、軍の現職にいるものを引っ張ると、軍から何をいわれるか解らない、ということで中止になった。
このとき小泉とはどんな人かと近衛公に聞かれた。
第三次内閣のときにも、近衛公から同じような話があり、また私にやれといわれた。このときも同じように、私は同仁会のことで手が回らないと話した。今度は一度小泉君にあってみたい、チャンスをつくるようにといわれた。近衛公という人は、やはり気にいると酒もなかなか強い。そこで大いに三人で飲んだ。近衛公も完全に了解した。小泉君もまた腹がすわったので、それは面白い光景だった。」
その後、小泉は1941(昭和16)年7月18日の第三次近衛内閣で厚生大臣になった。この年の12月7日、日本はハワイの真珠湾の奇襲攻撃を行い、太平洋戦争がはじまった。小泉は厚生大臣になった翌年の1942(昭和)年10月から、国民学校卒業生で就職を希望する者のBCG接種に踏み切った。
第八小(結核予防)委員会、結核予防に関する報告書がでる前のことである。
1944年7月22日まで厚生大臣を務めたが、その後勅選によって貴族院議員となったが、そこでは一言も発言しなかったという。