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私立伝染病研究所1

北里柴三郎は熊本医学校卒業後、1875(明治8年)年東京医学校に24才で入学したが、8年もかかって、32才で卒業した(1883年)。大学を出るとすぐ内務省の衛生局に入った。

 当時の衛生局長、長与専斎の紹介で北里は1886(明治19)年1月、ドイツの結核菌を発見したコッホのもとに派遣され、7年間の留学生活を送った。コッホのもとでは破傷風菌(嫌気性菌)の純培養に成功、ベーリングと共著で、「動物におけるジフテリアおよび破傷風免疫の成立」を出版した。

 この研究によって、免疫された動物から採った血清を、患者に与えて病気の治療をする方法、いわゆる血清療法の端緒が開かれた。

 北里は1892(明治19)年5月帰国するが、帰国後母校東大の対応は冷たかった。 

 北里には、自分ほど業績を挙げた者はわが国にいないという自負があったのに対し、大学は両手を挙げて迎えようとしなかった。大学は北里を格別の扱いにせず、他の帰国者と同格の形で、研究組織に組み入れようとした。

大学では専門的研究を進めるための講座を準備中(1993年9月発足)だったこともあって、コツホ研究所をモデルとしたような北里の要求を不当とした。このことが北里の自尊心を傷つけ、北里生来の闘争心に火をつけた。

長与専斎は、福沢諭吉とは適塾(江戸時代緒方洪庵がつくった洋学の塾)で生活をともにし、福沢諭吉の次の塾頭を務めたこともあって、北里を福沢諭吉に紹介した。福沢諭吉の援助で、1892(明治25)年の11月30日には芝公園の一隅に小さいが、気の利いた伝染病研究所を造った。

 1893年6月から、職員は所長一人、部長二人、助手七人、薬剤師二人、書記三人を置くことと、学術部、治療部を置くことが決まった。 北里は、1894(明治27)年11月から1895年2月までにジフテリア患者に抗血清治療を開始し、19人を治療し、全治15人、死亡2人、治療中2人という結果で、その治療は神技のごとくであったといわれている。

これが、我が国の血清療法のはじまりである。


 
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