top of page

私立伝染病研究所2

 北里の四天王といわれた志賀潔(東大、明治25年卒)が赤痢菌を発見し、1897(明治30)年12月25日発行の「細菌学雑誌」に掲載した。北里は志賀論文の前に論説として紹介を書いただけで、論文には自分の名前は付けなかった。北里の名前がつけば、志賀の名前が消えてしまうのを恐れたからである。この「細菌学雑誌」は、1895(明治28)年12月に創刊されて雑誌である。この頃になると細菌学の分野では、落穂拾いの観があった。既にウイルスの時代の突入していたのである。

北里は福沢諭吉の創設した養生園(結核病院)も担当した。養生園は、伝研とは無関係に病後の養生をするための施設が東京の近くにあればと、長与専斎が福沢諭吉に話したことがきっかけとなりできた施設であった。福沢が芝区白金三光町、土筆ヶ岡(つくしがおか)と呼ばれるところに敷地を用意しできたもので、建設資金は森村財閥(現在のTOTOもそのグループ)の森村市左衛門らが拠出した。

 養生園は1893(明治26)年9月15日開院したが、福沢がたまたま時事新報(福沢諭吉が主幹の雑誌)で宣伝してしまったため北里がやる羽目になった。

 養生園には北里の名を慕って多くの患者が集まり、またたくまに市内(東京)屈指の結核専門病院となり、最初の1000坪から1901(明治34)年には7757坪にもなった。養生園には病院の建物のほかに機関室があり、ドイツから輸入した蒸気消毒罐(オートクレーブ)も備え付けられていた。 

また濾水式水道も敷設してあり、我が国初の近代的な病院であった。彼は雇われ院長で、なれない手つきで聴診器を振り回して、養生園もやらざるをえなくなった。

 経営の面でみると、福沢は養生園から報酬を受け取らなかったものの、養生園に貸し出した土地や資金に対しては、その使用料や利子はきちんと取った。

 ここで北里は、コッホの真似をして、1931(昭和6)年6月脳溢血で死ぬ(78才)まで結核患者にツベルクリン療法を続けた。


 
Featured Posts
Recent Posts
Archive
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page