内務省の伝染病研究所2
1909(明治42)年秦左八郎(三高医学部、明治28年卒)とエーリッヒによって梅毒の治療薬サルバルサンが発見された。
秦から伝研に、サルバルサン発見の報告が入って一ヶ月ほどして、当時開通したばかりのシベリア鉄道を経由した、一包みのサルバルサンが伝研に着いた。1909年夏の終わりだった。
サルバルサンは、一時的に陰部症状をとるが梅毒を死滅させるものではなく、何回も繰り返し治療する必要があったし、最後には脳梅毒にもなった。
北里の恩師コッホ(結核菌、ツベルクリン発見)夫妻は、ニューヨークで熱烈な歓迎を受け、サンフランシスコ、ハワイを経由して1908(明治41)年6月12日朝、横浜港に着いた。
コッホの来日は、世界的な医学者がわが国を訪れた最初であった。
わが国では、石黒忠悳(いしぐろ ただのり、初代の陸軍軍医総監)を委員長とする「コッホ歓迎会」がつくられ、盛大に歓迎された。 コッホは、数日間わが国で進行中の研究を子細に検討した後、二ヶ月にわたる日本国内の旅行に出た。
北里と二人の助手がいつも付き添い、各地で熱心な歓迎を受けた。
コッホはドイツあてに、日本は世界で最も美しく、興味を持てる国の一つであると書いた。
コッホは北里を大いに褒めたたえたので、コッホのために北里は、前代未聞だといわれる大判振る舞いを行ったのである。
彼はこのときばかりではなく、よく食い、よく飲み、よく遊んだ男であった。 普段も仲間や身内の者にも気を配り、家族や生活の心配もしてやっていたので、北里柴三郎のためなら、死んでもよいというものが、伝研内には沢山いたという。一方では政界人とも付き合い、新橋や赤坂で豪遊していた。
この資金は養生園のもうけから出ていた。