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北里研究所成立

1914(大正3)年10月14日時の大隈内閣は、「行政整理、文政統一という名目で伝研を内務省から文部省へ抜打ち的に移管した。北里一門はこの仕打ちに激怒して総辞職し、北里研究所(以下、北研と略)をつくった。

これが当時、医学界の大問題となった「伝研移管問題」であり、「問題は問題を呼んで、風説は風説を生じ、ほとんど停止する所なからんとす。」といわれた。もともと北里は東大とは対立していたが、この移管を契機として、両者の対立はさらに激しいものとなった。

 福沢諭吉が1901(明治34)年2月3日に死亡した後、個人のものとして運営してきた養生園の財産一切を寄付して、これを社団法人とした。

北里は移管の時満62才に近くなっていたにもかかわらず、もう引退してもよい年齢だったが、北里はこれを契機に猛烈な活動を開始した。

 まず北研を創設(1914年11月5日)し、その運営を軌道に乗せ、さらに福沢諭吉の創立した慶大に、医学科を設ける計画が1917(大正6)年決まると、創設と経営の責任者を引き受け、発足から1928(大正14)年まで医学科長・医学部長となり附属病院長も兼ねた。

 慶大医学科の発足に当っては、北研職員を兼任させ、京都帝大から多数の人材をえて教授とした。 これは京都帝大の荒木寅三郎総長(東大、明治20年卒)と北里とが、ドイツ留学時代から親しかったためである。

 北里は政治、行政に積極的に関与するようになった。1923(大正12)年年11月、全国の医師を網羅し、法定の日本医師会を成立させて会長となり、終生その職にあった。北里以後、日本医師会長の席は慶大関係者が占めるようになる。北里の後を北島多一が継ぎ、敗戦前後はしばらく空くが、また慶大出身の武見太郎につながった。


 
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