小泉親彦シリーズ2
小泉親彦(東大、明治41年卆)は、東大では不真面目な医学生で階段教室の上段に座り、時々教室から抜け出し、よく汁粉屋に行っていた。 当然彼の大学での成績はよくなかったが、卒後は陸軍に入隊。1910(明治43)年には軍需工場で働く者の生活実態を調査し、「工人の生計および衛生」で...
小泉親彦シリーズ
小泉親彦は1884(明治17)年9月9日生まれで、昭和天皇は1901(明治34)年4月29日生まれ。 小泉は昭和天皇より17才年上であった。 小泉の父、親正は官軍の軍医として、西南戦争で活躍したが、結核で死亡。このことで親彦は医者になることを決めたという。...
石井四郎の逸話(続)
昼食後、将校への教育があった。石井四郎は、二時間位、ひとりで喋り続けた。映画も観せられた。それは、石井四郎の経験したノモンハン事件の時の戦争の八ミリ映画で、捕獲したソ連の戦車の上に日本兵が乗っかり、『降伏しろ』と攻めている場面などが映っていた。相手は降伏せず、突如、戦車が動...
石井四郎の逸話
吉開那津子著「消えない記録 湯浅軍医の生体解剖の記録」(日中出版会、1993)、1943(昭和18)年の秋、山西省潞安(ろあん)の陸軍病院へ査閲(監査)のため石井四郎が来たという。監査というのは、現在の年一回の保健所監査のようなもので、彼は731部隊を下ろされたときのことで...
5月31日宗八、抱卵ガレイ釣り
新冠町節婦にて 船は栄寿丸、午前11時から午後5時までのつり。 お持ち帰りは抱卵ガレイ2匹(48cm、42cm) と宗八40匹、宗八は天日干しの写真。
石井は発明家
背蔭河の実験場では、大量の結核菌やBCGの培養が必要であったが、これについては 1931(昭和6)年の第5研究の箇所に「防疫学教室及び防疫学部においては、軍隊に於ける結核の予防接種の免疫効果及び各種免疫法の比較検討に務めると共に培地及び培養方法の改良により生産能力の増進価格...
第12回口頭弁論
6月3日「由仁・三川C型肝炎訴訟」第12回口頭弁論がありました。 この日は裁判長が替わった為もあり、原告側・被告側の激論が交わされました。 写真上は口頭弁論前に原告必勝を込めた大通り公園での集会の様子です。 写真下は美人原告2人組です。
奇異な男、石井四郎
1942(昭和17)年8月突如731部隊長を解任された。石井四郎が731部隊の任を解かれた最大の理由は、莫大な公金を遊興費に充てていた疑い。 夕刻になると長春から遠く瀋陽まで足をのばし、遊蕩に耽り、何日も帰らないことが多かった。瀋陽の波花町の日本料亭「粋山」は石井四郎のお気...
石井四郎
1938年春にはハルビンから南へ20kmところに3600ヘクタールという巨大な土地に「平房の細菌戦部隊」が現れた。部隊員300人、その家族3000人とも言われる。 「平房の細菌戦部隊」の部隊長石井のもとに2人の兄がおり、石井3兄弟の下には石井家の小作の2男、3男がおり、特別...
由仁・三川C型肝炎訴訟 第12回口頭弁論
本日、14:00より、札幌地方裁判所において「由仁・三川C型肝炎訴訟」第12回口頭弁論が開催されます。 今回は、故新田留夫氏の長女である新田はるみさんが意見陳述を行います。 陳述書の内容は本日15:00以降に再度UPします。